歌手とアイドル

松浦亜弥という存在を考えたとき、
多くの方(おそらく「一般」と「ファン」の間)において、
考え方の違いがあるだろう。その顕著な例が「アイドルか? 歌手か?」だと思う。
はじめに俺の意見を言わせていただくと、「松浦亜弥はアイドル」である。
ただし、この「アイドル」という言葉が食わせ物なのだ。
俺はこの言葉に特に注目して、独自に研究をしているからこそ言えるのかもしれないが、
「アイドル」というのは「属性」だと考えている。
だから「アイドル」という「職業」や「仕事」があるわけではない。
理解しにくいと思うが、「アイドル」は「活動」でもない。
カテゴリィの一種としてはあるけれども、それは明確な分類ではない、
といのが全体的な俺の意見である。


この意見というのは視点によって異なる。
松浦亜弥の「活動」に注目した場合には「歌手」となり、
松浦亜弥の「存在性(雰囲気のようなモノ)」に注目した場合に、
あるいは「アイドルではないか?」と言えるわけである。
ただし、これは「いや、やっぱり歌手だ」という意見を完全に否定するものではない。


この話題は、過去に何度も試みているし、
俺は自分の意見を変えるつもりが今のところないので、この辺で辞めておく。


今回は、少し視点を変えて、
俺自身が思う「今の松浦亜弥」と「昔の松浦亜弥」について書こう。
紛いなりにも、一昨年の俺は「松浦亜弥No.1」だったのだ。
現在の「田中れいなNo.1」の俺と意見が異なるかどうか楽しみである。
だが、期待に反して、今も昔も気持ち自体に変化はない。
ある時点をきっかけにして、視点が180度変わったとも思えない。
もしそれを感じるとすれば、それは曲調自体の変化に違いない。
しかし、それだけなのだろうか?




確かに、デビュ当時に比べれば、ここしばらくの亜弥の曲は静かなものが多い。
かなり前の曲だが、『草原の人』を聴いたとき、俺は「つまらない」と感じた。
もちろん、この曲は美空ひばりさんの作詞で、とても素敵な曲である。
しかし、当時、ちょうど「亜弥No.1」の道を歩き始めていた頃の俺にとって、
この曲はそれまでの亜弥のイメージとはあまりに違っていたので、
素直に受け入れられなかったような気がする。
それはコンサートでの反応の差を想像すればよく分かる。
『THE LAST NIGHT』にしても、そうだ。
コンサートを楽しむ場合、どうしても明るい曲の方が盛り上がる。
もしバラードで踊ったとすれば、周囲から白い眼で見られかねない。
「静かな曲では亜弥の唄声を聴いて楽しむべきだ」と、そんな雰囲気がある。
それについては全面的に賛成だが、逆にその意識が、
松浦亜弥のイメージを「アイドル化」させているのだと言えなくもない。
メリとハリを設ける姿勢が、かえって「アイドル化」を助長しているのではないか。
あるいは、「期待している」とも言えるかもしれない。


松浦亜弥の「唄声」に注目した正確な時期は覚えていないが、
いわゆる「アイドル的な存在性」以外を求めるようになっていったのは、間違いない。


もう少し見てみよう。
はたして、松浦亜弥の曲は本当に変わったのだろうか?
俺は「良い意味で」変わったと考えている。
すなわち、松浦亜弥の成長とともに曲のイメージも成長したのだ、と。


デビュ当時は14歳だった。
まだ唄声の落ち着かない亜弥が今のような曲を見事に唄い上げることができたか?
正解はないのだが、俺は「NO!」だと主張したい。
年齢とのギャップというカタチでは、
ある程度は評価できる仕上がりになっていたかもしれないが、
それは何処か同情の含まれる評価になっていただろうと、俺は思う。
今の亜弥だからこそ、19歳あるいはそれに近い年齢の亜弥だったからこそ、
渡良瀬橋』や『ずっと好きでいいですか』のような素晴らしい曲を、
ぐんっと魅力的に唄い上げることができたのではないだろうか。


デビュ曲『ドッキドキ!LOVEメール』の歌詞を見て、
まだ上京したばかりの亜弥と、すっかり東京の生活に慣れた今の亜弥とで、
そのイメージの違いを考えてみても面白い。
「ファミレスにも入った、1人でコーヒー頼んだ」
今でこそ当たり前のような日常が、まだ土地勘のないデビュ当時の亜弥にとって、
どれだけ冒険に満ちあふれ、毎日が「ドッキドキ」だっただろう。
それは、その曲を聴いた当時にも感じたが、
いま一度、今度は成長した亜弥によって想像するのも微笑ましいではないか。
「あの頃はああだった。今はこうだね」
おそらく、そんな微妙な変化を、コンサートなどで感じることができるだろう。


もう1つ、難しい意見がある。
ここしばらくの亜弥の曲が「バラード寄り」なのかどうか?
どうだろう、『風信子』や『YOUR SONG〜青春宣誓〜』のイメージというのは?
俺は、むしろデビュ当時の亜弥に負けぬ、力強い曲だと感じている。
楽しいとは言わないまでも、元気が出てくる曲ではないか、と。
『YOUR SONG〜青春宣誓〜』の後に『渡良瀬橋』が発売されたわけだが、
周囲の反応としては、『渡良瀬橋』の方が好印象だったのではないだろうか。
俺は、その逆で、最初に『渡良瀬橋』を聴いた時は、
断然『YOUR SONG〜青春宣誓〜』の方が素敵な曲だと思った。
だからと言って、『渡良瀬橋』の方が下だ、とは言わない。
曲自体に違いはないのである。あるとすれば、唄い手である亜弥の方なのだ。
それは決して「上」とか「下」の評価ではない。
強いて言えば、「赤」とか「青」といった違いだと思う。
あるいは、「クリームパン」とか「メロンパン」といった違いかもしれない。
(この例えが分からないのなら、それでも構わない。)


曲を作ったのは、つんく♂。詞を書いたのも、つんく♂
いや、別につんく♂でなくてもよいのだが、肝心なのは、
それらの曲を唄っているのは、松浦亜弥自身である、ということだ。
つんく♂でも、谷村新司でも、森高千里でもない。
松浦亜弥という19歳の、オトナともコドモとも思える年齢の女の子が唄っている。
俺は、それこそが、最大に認めなければいけないことだと思う。


亜弥は、いや、亜弥に限らないことだが、
唄のイメージを考えて、気持ちを乗せて唄っている。
嬉しい時、楽しい時、反対に哀しい時、
それぞれの気持ちの時によって、同じ曲でも唄い方は微妙に異なるはずだ。
それほど亜弥のコンサートに参加した経験はないが、
やっぱり「楽しい」「嬉しい」時の亜弥の唄声というのは、非常にハリがあり、
聴いている方も、とても清々しい気分になる。
聴き手である俺自身が、何よりそれを痛感するのだ。
唄い手である亜弥の気持ちが唄に反映されないはずがない。
亜弥の曲には亜弥の気持ちが乗っている。
自分なりに感じた歌詞のイメージを、唄っている。
それはすごく意味のある、素敵なメッセージだと思う。


いささか強引なまとめになってしまうが、
亜弥の曲が変わったと感じるコトを、俺は良い傾向だと考える。
それは、亜弥が成長するにしたがって様々な表現を覚えたのだと納得できるからだ。


最後にもう1つ。
渡良瀬橋』と『ずっと 好きでいいですか』の間には、
実に変わった楽曲が入っている。『天才!LET`S GO あややム』だ。
この曲は、「声優としての松浦亜弥に触れたい」ために、
子どもとその親に白い眼で見られながらも映画館に足を運んでみた作品の主題歌だ。
率直に言えば、とても楽しい曲だと思う。
少なくとも、18歳としての松浦亜弥のイメージが壊れるモノでは決してなかった。


全面的に褒めるカタチで、本当に言えばあまり好きな意見ではないのだが、
松浦亜弥、あるいは娘。でもよい、
彼女たちは自らに与えられた楽曲を確実に自分なりにアレンジしている。
つまり、その曲のイメージを変えてしまっているのだ。
メッセージを乗せている、と言って良い。
俺は、そこが好きなのである。
そして、だからこそ「歌手」として評価できるのだ。
カラオケで歌詞を見ないで完璧に唄い上げたり、
採点機に100点を判定させるだけの唄い方では決してない。
上手下手の枠を超えて、曲というメディアに、気持ちという見えないカタチを乗せている、
彼女たちは「メッセンジャー」なのだと、最近は思うようになった。


カタチを変えていく松浦亜弥の姿を、もうしばらく見ていたい。