ヲタの間には「DD」という言葉がある。
これは「誰でも大好き」という意味で、あくまで「ハロプロヲタ用語」である。


ただし、「DD」の線引きは難しい。
「○○1推し」と挙げておきながら「2推しに○○」というケースは多数ある。
それを「推しているだけだからDDではない」と言ってしまえば、
DDは成り立たなくなってしまう(別にDDであることが重要だとは言わないが)。
単純に考えれば、2人以上の推しが存在する=DD、という認識が尤もらしい。
とはいえ、そうではないファンは、非常に稀だと思う。


今回は、DDについて考えてみた。




このテーマを選んだ理由は、
ハロコンはDDだったら盛り上がる」みたいな意見に棘を感じたからだ。
確かに、ハロコンハロプロメンバが総出演するので、
いろんな部分に「推し」をもっている人にとっては、
「推し」だけが登場するコンサートに比べて、かなり満足できるものだと思う。
ただし、単に推しメンが登場しただけで満足できるDDと、
ある程度のパフォーマンスがあって初めて満足できるDDと、2つのタイプがあるだろう。


俺自身は後者、あるいは自分自身をDDではないと思っている。
どちらかといえば、BD(「別に誰でも構わない」の意)だろう。
ただ、これはネガティブな意見ではなく、むしろその逆だ。
誰に応じても楽しむことができるファン、と言いたい。


今回のハロコンもまた、非常に楽しむことができた。
それは、自身初の至近距離という興奮を味わえた理由もあるだろうが、
正月のハロコンも含めて言えることで、
せっかくあれだけのメンバが揃っているのだから、
いろいろ組み合わせて、賑やかなコンサートにした方が良いと思うのだ。
俺は、別にカラオケ的なコンサートになっても、全然構わないと思っている。
そのコンサートに何千円もの料金を払えるだけの質があるかどうかは、
結局、参加する当人次第なのだ。行きたくないなら、行かなければ良い。
どのみち、1回は参戦しないと状況が分からないわけだから、
参加してつまらないと感じたのならば、それで止めにすれば良い。


では、「今回のハロコンにもう1度参加したいと思ったか?」と問われれば、
正直言うと、「微妙なところ」と答えざるを得ない。
何故なら、ほとんどのコンサートの満足度は、
そのコンサートにおけるセットリストも大きく関係するとはいえ、
結局のところ、座席の位置や連番相手との関わりが大きいような気がするからだ。
極端な話、その場合、コンサートの出来は別の要素で成り立っている、
ある意味「満足感の錯覚」ではないだろうか?(多少語弊を招く言い方かもしれない)
もちろん、唄が駄作だったら、たとえ連番者がいても楽しめない。


今回、俺はなかなかの良席を戴いたわけだが、
次の公演でも同じくらい良い位置に立てるわけでは決してない。
「2階席や3階席だったら楽しめないかもしれない」
「ましてや1人きりだったら?」
そんな不安があるからこそ、悩むのである。
ただし、それでも、その不安以上にセットリストが良ければ、
やはり参戦したいという想いの方が勝るだろうとも想像する。
今回のハロコンでは、れいなのエレジーズが非常に良かったが、
これは明らかに近距離だったからこそ言える満足感で、
俺としては絵里が唄う『スッペシャル・ジェネレ〜ション』の方が、
唄自体のパフォーマンスに対する興奮や満足感は大きかったと思っている。


また、ごっちんの『スッピンと涙』や、
あややの『ね〜え?』、『ずっと好きでいいですか』など、
もう1度聴きたいと思う唄は、いくつもあったが、
こんなふうに単にソロの曲が良いと感じてしまうと、
「それだったらソロコンサートに行けば良い」と思ってしまう。
やはり、せっかくのハロコンなのだから、
ハロプロメンバが揃ってこそできるコンサートにしてほしいと期待するのだ。
その意味でシャッフルユニットや、
カラオケ的なセットリストというのは、評価できるのではないだろうか。


だから俺は、立場上はれいなを見に行ったとはいえ、
あくまでハロプロメンバのコラボレーションを見に行ったのだ。
ただ単に、いろいろなグループやメンバが、
それぞれの持ち歌を唄うだけのコンサートだったら、
もちろん、個々のグループの楽曲も好きなわけだから、
それ相応の興奮は得られたとはいえ、
やはり今回のハロコン、あるいは正月のハロコンのような、
新鮮な興奮と感動は得られなかったに違いない。
別に、紺野や絵里を贔屓するわけではないが、
彼女たちのソロは非常に良かったと、今でも思う。


俺は今回のハロコンを終えて、ある悩み事を抱えたのだが、
その理由というのは、先日の日記に書いた通り、
純粋にコンサートを楽しむことよりも、
至近距離でメンバを見た興奮が勝ってしまったことを恥じたからである。


極端な話だが、
ハロコンを他のコンサートと同じモノとして捉えることが良くないのではないだろうか?
文化祭のようなイベントと捉える方が適当な気がする。
いや、コンサート全般が、そういうノリなのだと考えるべきだろう。
はっきり言って、コンサートで聴く唄がCDより良質だとは思っていない。
音飛びはあるだろうし、反響も酷いくらいだろう。
周りはヲタやファンばかりだから、ステージ上のメンバの歌声より、
側にいる人間の声援の方が良く聞こえて五月蠅いくらいだ。
それでもコンサートに参加するメリットというのは、
一言でいえば「生の体感」だろう。つまり、それが「ライブ」である。


普段から思っていることだが、
あまり「アーティスト」ということを意識しすぎると、
唄が下手だとか、つまらないという気持ちを抱きやすいと思う。
俺は「唄が上手い」などという軽い理由で、娘。のファンをしているのではない。
それ以上に、娘。のパフォーマンス性を、俺は評価しているのだ。
だから、コント的な演出というのは、かなり好きだ。
しかしながら、やはり「アーティスト」、つまり「歌手」としてデビュした以上は、
それ相応の活躍を見せないと、何というか示しがつかないのも事実だ。
では、それを考慮したとき、娘。の楽曲は低迷しているだろうか?
その問題は、また別に考えるとしよう。


散々と勝手な理屈を並べてきたが、
ハロコンがDD向きである」という意見は、非常につまらない。
確かに、いろいろなメンバに興味をもっていないと楽しめないことも事実だが、
それでも前述したような視点で捉えれば、
よほど1人に固執したファンでない限りは、
様々な組み合わせが楽しめる、期待できる場だと、俺は評価している。
逆に言えば、50人近くが揃っているのに、
90分程度のコンサートでは物足りないだろうと思うほどだ。
個々のメンバの活躍がもう少し見られても良いのだが、
それは「最初からハロコンで期待するべきことではない」のだ。


まだ数回程度しか、ハロプロのコンサートには参加したことがないが、
参加の意識を間違えると、大概、そのコンサートは失敗に終わる。
「これくらいのコンサートでなければ駄目だ」という意識で望むと、
実際にそれが得られなかった時のショックは大きい。
かえって「これくらい感動があれば良し」と設定を下げた方が、
コンサートというのは楽しむことができる。それは分かってもらえると思う。
結局、「ハロプロに飽きた」という意見は、
彼女たちに対して「もっと」を求め過ぎた、成れの果てなのだろう。


設定を下げた方が良いというのは、「推し」にもあてはまる。
「俺はこのメンバでしか楽しむことができない」と意識すると、
いや、無意識的であっても同じことなのだが、
それ以外のメンバの魅力を見逃してしまうことになるだろう。
逆に、「このメンバはこの程度ではないか?」と評価を低く設定しておいて、
自分の想像と実際の姿にギャップを感じることができた方が面白い。
そうなると、自然に「○○も良い」という意識が生まれ、
いわゆるDDへの道を歩み始めることになる。
すると、DDと呼ばれる人には、
単純に「誰でも良い」という想いが根底にあるのではなく、
「それぞれに魅力があって良い」という気持ちがあるのだと気付かされる。


肯定的にも否定的にも呼ばれる「DD」という言葉だが、
俺自身は、素直にメンバの魅力を認めている人たちだと思いたい。