俺は、コミュニケーションを円滑にする目的を意識して、
基本的には、「俺はあやヲタだ」と表現してきたつもりだ。
ただ、それは間違いだとも言っておく。
あやスタに書き込んでいる際にも、
一度たりとも自分を「あやヲタ」だと感じたことはなかった。
言葉の表現上の影響(つまり、ヲタという言葉に感化される瞬間)はあったが、
やはり自分は「あややのファン」程度の認識だったと思う。
そういう意味で「ヲタ」という言葉は便利だ。
「ファン」以上に「ファン」らしく、また「熱い想い」が伝わってくる。
若干、「世間から遊離した感がある」のは切ないが。


「歌手」として、「アイドル」として、あるいは「CMの女王」として、
その活躍は止むことがない。
松浦の唄は、初期の頃からずっと変わらない魅力をもっている。
つまり、普通は成長とともにキャラクタ性も変化するものだ。
一言でいえば、大人の雰囲気を持ち始める。もちろん、松浦も例外ではない。
ただ、初期の曲、例えば『桃色片想い』は、
ダンサブルなアップテンポで、曲調も愉しく、人気の高い曲であるが、
仕事帰りのOLが冗談交じりで歌うことはあるとしても、
大人の女性が歌いこなすには、ちょっぴり恥ずかしい曲だと思う。
大人の男性が往年のアニメソングを熱唱するようなもの。
20歳を迎えた石川梨華が今もなお「ハッピィ〜」と言うようなものである。
(もちろん、その行為自体に罪はなく、単にギャップがあるという意味)


ところが、松浦にはそれがない。
どの頃の、どの曲を唄っても「現在の松浦亜弥」として完璧に歌い上げている。
唄声だけの話ではなく、ダンスにしても、表情にしても、歌い方すべてに、
その時その時の「松浦亜弥」が詰まっている気がしてならないのだ。
だからこそ、逆に言えば、調子が悪い時が分かってしまうのだろう。
相変わらず歌詞を飛ばしていないか、今日のコンサートが心配である(笑)。


どんな想いがあるにしろ、俺は「あやヲタ」を自称する気はない。
もし有っても、それは冗談か、他愛のない演出だと思ってもらいたい。
しかし、重要な事は、事実の可否などではなく、
そんな俺が「それでもあやヲタにならばなっても構わない」と、
考えてしまう余地を抱いているという事実である。
それは、つまりは松浦亜弥の魅力に他ならないと思う。