さて、
晴れて19歳になった松浦亜弥
俺は、彼女の何に惹かれたのだろうか。それは随所で答えている。
「唄声が気に入った」それが一番の理由だと考える。
しかしながら、それ以外の理由が存在するのではないか?


それよりもまず、
松浦亜弥はアイドルなのか?」という問いに答えねばなるまい。
俺は「アイドルである」と答えたい。
だが、一方で「歌手」であり、はたまた「女優」であり、
そういう人のことを「タレント」と称するのだろうが、やはり「アイドル」だと思う。


この「アイドル」という単語に多くの人は騙される、誤解する。
「アイドルはカワイイ」というのは、基本事項ではあるものの、
それが単に「ルックス」を示すだけの言葉ではなく、
「キャラクタ」だったり、「個性」だったりであると考える。
「アイドルだからルックスが良い」という関係ではなく、むしろ、
「カワイイからこそルックスも良いと評価できる(気にならない)」と、
柔軟に捉えるべきだと主張したい。
「ルックス」という言葉に惑わされて本質を見誤るのは愚かだと言える。
同様に、「アイドル」という単語から連想される人物像が、
固定的、固執的、偏見に満ちた有り様であることも哀しく思う。
俺は、○○は「歌手だ」「アイドルだ」「女優だ」という揉め言が好きではない。


以上の理由によって、俺にとって松浦亜弥は、
「アイドル」だろうと「女優」だろうと「歌手」だろうと、何だって良い。
またしても蛇足的になってしまうが、
同じように、俺が「ファン」だろうと「おたく」だろうと「マニア」だろうと、
それは些末な事象に過ぎないことを言っておく。
だから、以前に此処で書いたような悩みの内容は、大して重いものではない。
強いていてば、意識の問題である。
自分がどうなりたいのか、あるいはどう表現したいのか。
手当たり次第に試している段階が今である。
そのレベルはとっくに過ぎたとばかり考えていたが、そうではなかった。
世の中には、まだまだ興味を抱かねばならない出来事がたくさんある。
それを「安定」や「平和」を盾に無視するのは哀しい。
そう思ったからこそ、あるいはそう考えてしまった事が、
現実と精神との葛藤を生み、自分自身を別方向へ進ませる原動力となった気がする。
アイドルに対して興味をもつようになったのも、ひょっとしたら同じ理由かもしれない。
一言でいえば、「挑戦」とか「試験」という意味になるだろうか。
俺自身はその心理的進退を「研究」と表現している。


言葉による自己のカテゴリィが心身に葛藤を与えることがある。
想像でしかないが、松浦も似たような悩み事を抱えていたのではないだろうか。
彼女自身は変わらないキャラクタを演出しているように見えるが、おそらくは、
「いつかは変わろう、変わらなければいけない」と考えている(いた)だろう。
大抵の人間は、普通はそう考えるものだ。特に、19歳あたりは。俺もそうだった。
そう考えると、見ている俺も、松浦に対する視点を改めた方が良いだろう。


キャラクタとか個性というのは、本人の意志とは無関係に存在するものだから、
自分自身では「こう見られたい」と思っても、その通りに見られる保証は全くない。
吉澤ひとみ小川麻琴は共に「おっさんキャラ」として見られるが、
吉澤はどこかで「カッコ良さ」「可愛さ」を持っている。
対して、小川は反対の性質として見られることの方が多いようだ。
それがまさに「キャラクタ」の成す評価だろうが、
その部分に固執するあまり、他の視点を忘れてはならないだろう。
ただ、皆は言わないだけでちゃんと吉澤も小川も認めていると俺は信じているが。
同じように、亀井絵里もまた、違う視点で見てあげなければならないだろう。
「もし〜ならば」を意味する「If」という言葉は、大概「悪い意味」に使われがちだ。
「ひょっとしたら」「もしかして」に続く言葉が「悪い」ニュアンスであるように。
できれば、それを「良い」意味で使いたい。


「そうじゃない。もしかしたらもっと良いはずだ」


俺が多くのアイドルを好きになる理由が、実は此処に隠されている。
そうでなければ、俺みたいな人間は人を好きになることなんてないだろう。
とはいえ、事ある毎に、結果的に否定的扱いをしてしまう、
吉澤や小川に対しては申し訳なく思っている。2名のファンに対しても、だ。


以上の事は全て、松浦亜弥と俺との関係に繋がる。