尊敬ってなに?

いきなり話は変わるが。




この世の中で「最も難しい愛し方は何か?」と問われれば、オレは「敬愛」と答えたい。
人を尊び愛すことは容易ではない。愛されることもだ。
第一に「尊敬」を表現するのは難しい。
少なくともオレは「尊敬」を表現している人物を知らない。
古典でならばお目に掛かるが(それさえ真偽は定かではない)、現代ともなれば難しい。
誰もが「自分は自分」と考えて、社会もそんな「個人主義(良く言えば「個性」)を認めているからだ。
それに、そういう生き方は決して間違いではない。むしろ正しいと思う。


余談だが、オレは生まれてから「人のために」何かをした事がない。
電車で席を譲る時も、道で立ち往生している人に「どうかしましたか?」と尋ねる時も、あるいは向こうから「すみませんが・・・」と尋ねられた時でも、どんな時でもオレは自分の事だけを考えていた(はっきり覚えちゃいないが)。
ましてや募金活動には興味がないし、ボランティアなんて経験したことがない。おそらくしようとさえ考えない心の狭い人間(かどうかは自分では決められないが、少なくとも活動的ではない)である。
わざわざ「人のため」という大義名分がなくてはいけないのかと、天の邪鬼に考えてしまうほどのひねくれ者なのだ。


普通ならば「困っている人は放っておけない」と(正義感だか何だか知らない優しさと情熱だが)思って行動を起こすだろうが、オレは「困っている人を放っておくオレ自身が放っておけない」と思うのだ。
その事態を無視した時の居心地の悪さは我慢できないほど気持ちが悪い。
だから、老人に席を気持ちよく譲るし、道を尋ねられれば真剣に答えることができる。
しかし、繰り返すようだが、それは決して相手を思っての行為ではないのだ。
もしオレが体調不良で座っている方が楽だと知っていた場合、たとえ目の前で老人が困っていようともオレは決して席を譲らないだろう。
少なくとも、相手の体型、状態、次にどの駅で降りるだろうか、オレが降りる駅まであとどれくらいだろうか、周りに他に席を譲りそうな人はいないか、という具合に状況を確認する程度である。オレが席を譲る可能性自体は少ない。


横道にそれてしまった(だからもっと逸れよう)。
オレは間違っても尊敬する人物に「両親」を挙げることはない。
その気持ちを責める気はないのだが、「いったいどんな理由で尊敬しているのか?」と気になってしまう。
「自分を生んでくれたから」と答える人が多いが、それは「尊敬」ではなく「感謝」ではないか。


「尊敬」とは「ライバル心」ではないかと、いま書いていて、ふと思った。
「虎視眈々」と相手を観察し、共に行動して学び合い、「切磋琢磨」で苦難を乗り越える関係、というか。しかし、いつかは相手よりも上位に立ってやるという野心も備えている。
少なくとも、単なる「憧れ」や「関心」ではないと思う。
(だから、「尊敬する人物」に「両親」を挙げる人は「親を超えたい」と思っている人かもしれない。)


「尊敬」そして「敬愛」という感情は、未だによく分からないキモチである。
だからこそ、自分がそれらの感情を抱く以上に、相手から「尊敬」されたり「敬愛」を受けたりすることを強く望むのかもしれない。